13歳まで監禁されていた少女


2015-12-05_114008

ジーニーは1957年、カリフォルニア州の家庭に4番目の子供として生まれた。

上の子供のうち2人は虐待が原因により死亡しており、兄が1人だけいるという。

生後1歳2ヶ月頃、医師に「発達が遅れているかもしれない」と診断された事から父親のクラークはジーニーを監禁するようになり、暗い裸電球一つの寝室の便器付きの幼児椅子に縛り付けられ、裸のまま放置され暮らしていた。

父親は音に敏感だったそうで、ジーニーが音や声をたてると彼女を怒鳴り殴ったらしい。

また、母親や兄弟がしゃべる事も禁じていたそうだ。

夜は寝袋の中に入れられることもあったという。

食事はベビーフードとオートミール、卵が与えられていたそうだ。

父親はジーニーに接する際、野生のイヌのように吠えたり唸ったりし、一切言葉を掛けず、爪を伸ばしジーニーを引っかいたり、歯をむきだして彼女を威嚇していたらしい。

部屋に閉じ込めらていた数年間、ジーニーが聞いた唯一の音はドアの外で父親が唸ったり吠えたりする恐ろしい音だけだったそうだ。

母親のアイリーンは目が悪く、電話を掛ける事も出来なかったため、誰にも相談出来ずにいた。

父親は母親に対し「ジーニーが12歳まで生き延びたら、彼女を助けてやる」と約束していたが、守られることはなかった。

そして1970年、ジーニーが13歳半になった頃、母親は意を決してジーニーを連れて家を脱出したのだ。

祖母の家で3週間過ごした後、援助施設を訪れ、事件が発覚。

1970年11月17日、新聞がジーニーを報道したそうだ。

両親は児童虐待で告訴された。

出廷を命じられた父親は11月20日に拳銃で自殺したという。

その後ジーニーはロサンゼルスの子供病院に収容されたそうだ。

人生の大半を椅子に拘束されて過ごしてきた為、当初は身長137cm、体重26.7kgと筋力が無く、立つ事も出来なかったという。

また咀嚼もできず、排泄の習慣も無かった。

また、言葉を話す事も出来ず、わずかに簡単な単語を理解できるのみだったという。

次第に、「うさぎ歩き」と呼ばれる奇妙な歩行を覚えたそうだ。

しかし、つばを吐き続ける癖と、自慰を繰り返す癖がなかなか直らず周囲の人たちを困らせていたという。

その後、ジーニーはジーン・バトラーという養護学級の女性教師と仲良くなり、1971年7月7日から一時的に彼女の家で生活したそうだ。

バトラーは正式にジーニーの里親となる申請を行ったが却下されてしまったという。

その後、心理学者のデービッド・リグラーとマリリン夫妻が里親になると決定し、1971年8月13日にジーニーはリグラーの家へ引っ越した。

そして、マリリンの指導により食事の作法などを少しずつ身につけていったそうだ。

しかし1974年、国立精神衛生研究所が研究費の打ち切りを決定すると、1975年6月に夫妻は里親を止めることになる。

その後ジーニーは、1971年夏に目の手術に成功した母親のアイリーンに引き取られた。

しかし、母親であるアイリーンはジーニーの乱暴なふるまいに耐えられず、11月7日に新しい里親へと引き取られることになってしまった。

そして次の家では、今まで以上に厳しい躾が行われたという。

ジーニーはアイリーンに会う事も許されず、そのストレスから身につけていたはずの生活習慣も捨て、言葉も話さなくなってしまったそうだ。

危機感を持った言語学者のカーティスがリグラーらを嗾けて、1977年4月、ジーニーを病院に入れさせた。

2週間後、ジーニーはまた新しい里親に引き取られるが、そこでの生活も長くは続かず、クリスマス頃には2度続けて引越してさらに新しい里親へ引き取られる。

その後、1978年3月20日には母親アイリーンが娘の監督権を取り戻し、ジーニーは知的障害者のセンターで暮らすことになったそうだ。

母親のアイリーンは2003年に死去したが、ジーニーは今でもカリフォルニア南部の施設で暮らしているという。

信じるか信じないかは貴方次第。

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