オウム真理教 松本サリン事件

2015-12-05_112940

1994年(平成6年)6月27日 22時40分頃。

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長野県松本市北深志1丁目に住む会社員の河野義行(こうのよしゆき/当時44歳)は妻の澄子(当時44歳)と一緒に自宅1階南側の居間でテレビを観ていた。

すると突然、気分が悪い、と澄子が言い出した。

河野は心配して横になるように言うと、自宅の北側の犬小屋の辺りで物音がした。

不審に思って屋外に出ると、2匹の愛犬が倒れて全身を痙攣させている。

河野はとっさに、誰かが敷地内に毒を投げ込んだのではないかと思った。

この悪質な悪戯を警察に知らせようと居間に戻ると、澄子はあお向けに倒れ、全身を痙攣させていた。

驚愕した河野はすぐに119番通報した。

23時14分頃、救急隊員が河野宅に到着。このときには河野と長女も苦しんでおり、救急車は家族3人を収容、病院へ搬送した。

23時48分、「開智ハイツ」の住人から、変な臭いがするという119番通報が入った。

翌28日午前0時5分、今度は「松本レックスハイツ」の住人から、友人が気分が悪いと言っているという通報があり、近くの民家からも、気分が悪い、救急車を頼む、という電話が入った。

午前4時15分、松本警察署は「河野家の他、付近住民から異臭のため気分が悪いという届け出が続出した。死者複数が出ている模様」と事件の第一報を発表した。

午前7時、長野県警は松本署に「松本市における死傷者多数をともなう中毒事故捜査本部」を設置、捜査員310人体制で捜査を開始した。

午前11時、県衛生公害研究所と松本保健所の職員が現場付近の池の水などを採取した。

夕方、捜査本部は「被疑者不詳の殺人容疑」で、河野宅を家宅捜索、薬品類などを押収。

この集団ガス中毒事件は、死者7人(マンションで5人が死亡、病院に運ぶ途中の救急車の中で2人が死亡)、重軽傷者144人を出す大惨事となった。

松本測候所の観測によれば、この日の夜の松本市の気温は20.4度。小雨が降っており、湿度は95パーセントで、冷房を入れるほどではないが、むしむしして窓を開けて寝ている人が多かったという。南西から北東に向けて、毎秒0.5メートルというわずかな風が吹いていた。

被害の範囲は半径70メートルに及んだが、死亡した人のすべてが2階以上の住人であった。

7月3日午前9時、捜査本部は記者会見で「サリンと推定される物質を検出した」と発表。

ここで、マスコミはこの事件『松本サリン事件』と名付けた。

サリンは、ナチス・ドイツが開発した有機リン系の神経ガスだ。

神経の興奮は神経伝達物質であるアセチルコリンによって伝えられるが、正常なときはアセチルコリンは酵素によって分解される。

だが、サリンなどの有機リン系物質はこの酵素と結合するため、その結果、アセチルコリンが体内にあふれ次の神経伝達が出来なくなり、中枢神経や運動神経に障害が現れて死亡する、という毒ガスである。

そのサリンは、第一通報者の河野宅の周辺6ヶ所から検出された。

捜査本部は、定石的捜査として河野から事情聴取を行った。

同日夜、河野の弁護士は本人とのやりとりを録音したテープを公開、事件との関与を強く否定した。

だが、これ以降、長期間にわたって河野は警察やマスコミからも白眼視され続けることになる。

まず、警察はポリグラフ(いわゆる嘘発見器)を取った。

そして質問が始まると、

”サリンを作った目的は、人を驚かすためですね?”

”あなたがサリンをつくった場所は自宅ですね?”

”あなたは長男に薬品が入った容器を隠すように指示しましたね?”

どの質問も、河野がサリンをつくったという前提でできていた。

ポリグラフは「はい」「いいえ」「知りません」という簡単な回答をするものだが、こんな質問ばかりでは冷静ではいられないだろう。

河野は機械に変化が現れないように、どんな質問にも心の中で数を5つゆっくり数えてから答えるようにしたという。

しかし

”機械は正直だ”

警察は検査の結果を自信たっぷりに答えた。

だが、その記録を見せてはくれなかった。

また、取調官は河野が調合を間違えたと話しているのを聞いた人がいると言い、河野がその本人に会わせるよう要求すると、人権上それはできないと逃げられた。

お前がやったんだろう、正直に吐け、と嚇す刑事もいた。

7月7日頃から河野を犯人扱いする新聞記事、テレビ報道が始まった。

7月30日、河野は退院。

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弁護士事務所で記者会見後、捜査本部はまた事情聴取を行った。翌日も聴取は続いた。

8月4日、捜査本部は、河野の体調が悪化したことを認め、しばらく聴取を見合わせると発表した。

だが結局、河野は翌1995年(平成7年)3月20日の『地下鉄サリン事件』が発生するまで疑惑の人物とされたのだった。

一方、オウム真理教(現・アレフ)はこの頃はまだ「怪しげな宗教団体」という印象が強く、松本サリン事件との関係は騒がれていなかった。

その後9月頃になって、『松本サリン事件に関する一考察』という怪文書が、マスコミや警察関係者を中心に出回った。

この文書は冒頭で「サリン事件は、オウムである」と言及するなど、一連の犯行がオウム真理教の犯行であることを示唆したものであった。

翌1995年3月に地下鉄サリン事件が発生し、ほどなく公証人役場事務長逮捕監禁致死事件でオウム真理教に対する強制捜査が実施された。

その過程でオウム真理教幹部は、松本サリン事件がオウム真理教の犯行であることを自供した。

事件の背景には、オウム真理教松本支部の立ち退きを周辺住民が求めていた裁判におけるオウム真理教側の敗訴の見込みが高まったことがあった。

オウム真理教の教祖麻原彰晃(松本智津夫)は、この状況を打開するために、同教団信者である村井秀夫・新実智光・端本悟・中村昇・中川智正・富田隆・遠藤誠一らに、裁判を担当する判事の殺害を指示した。

これを受け、同信者らは長野地方裁判所松本支部官舎に隣接する住宅街にサリンを散布した、というものであった。

事件当日の6月27日 16時頃、実行部隊の村井秀夫(当時35歳)、新実智光(当時30歳)、遠藤誠一(当時34歳)、端本悟(当時27歳)、中村昇(当時27歳)、富田隆(当時36歳)、中川智正(当時31歳)の7人が、山梨県上九一色村の第7サティアンから噴霧器をセットした2トントラックとワゴン車の2台の車に分乗して出発した。

2台の車は高速道路を使うと記録が残るおそれがあるので、一般道を走行して松本市へ向かった。

その途中、車の中で医師の中川が説明した。

”これから撒くガスを吸うと、視界が暗くなり、呼吸が困難になって、頭痛、腹痛、下痢などの症状が出ます。そういうときは治療薬がありますので私に言ってください。非常に危険で、死ぬ可能性があります”

さらに、諏訪市で休憩していたとき、中川が「予防薬だから飲んでください」と『メスチノン』を配り、その場で全員が服用した。

その後、岡谷市のドライブインで休憩していたとき、すでに日が暮れかかっていた。

このままいけば、到着は夜になり、攻撃目標にしていた裁判所に人がいなくなる。

そう判断した新実が村井に住宅地図を示しながらこう言った。

”裁判所から400メートル離れたところに裁判官宿舎があるのでそこに変更しましょう”

これを村井は承諾した。

22時前頃、噴霧車とワゴン車は裁判官宿舎から190メートル離れたスーパーの駐車場に入り、2台の車に偽造ナンバープレートを取り付けた。

次に中川が『防毒マスク』を全員に配り、解毒剤『パム』をアンプルから注射器に吸引し、いつでも注射できるよう準備を整えた。

そこへサリンを噴霧する場所を探していた村井が戻る。

中川らに指示して裁判官宿舎まで37メートルの河野義行宅の敷地に隣接する駐車場に2台の車を止め、22時40分頃から約10分間、およそ12リットルのサリン(純度70%)を大型送風機で噴射した。

この事件では松本智津夫と実行部隊の合わせて8人が殺人と殺人未遂罪で起訴され、サリンや噴霧装置を製造したとされる土谷正実(当時29歳)、林泰男(当時36歳)ら6人も殺人幇助罪に問われた。

2008年(平成20年)8月5日。

河野の妻の澄子が亡くなった。60歳だった。

事件発生から14年。澄子は事件の後遺症で意識が戻らないままだったが、容疑者扱いを受ける苦難を乗り越えてきた河野は「家族のために生きてくれた」との談話を公表した。

オウム真理教事件の被害者らからも冥福を祈る声が相次いだ。

12月18日、「オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支給に関する法律(オウム犯罪被害者救済法)」が施行され、地下鉄サリン事件などオウム真理教による8つの事件の被害者、被害者遺族に対して給付金が支給されることになった。

被害の程度に応じて10万~3000万円が給付されることとなった。

2009年(平成21年)1月6日、河野がオウム真理教被害者救済法に基づき、前年8月に亡くなった妻・澄子と次女への給付金を長野県警松本署で申請した。河野自身は前年12月末に県警本部で申請したという。

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信じるか信じないかは貴方次第。

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