オウム真理教 坂本堤弁護士一家殺害事件

2015-12-05_112851

1989年(平成元年)11月4日。

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横浜市に住む坂本堤弁護士(当時33歳)とその妻都子(29歳)、長男(1歳)の3人が突然、行方不明になった。

部屋にはオウム真理教のバッチ「プルシャ」が落ちていた。

週明けの6日 月曜日。

坂本弁護士が事務所を無断欠席したことを不審に思った両親が坂本弁護士宅を見に行った。

炊飯器には御飯が入ったままである。きれい好きの妻らしからぬ状態で3人がいなくなっていたのだった。

『横浜法律事務所』に所属していた坂本堤弁護士は、出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、1989年(平成元年)5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及していた。

同年10月下旬にオウム真理教幹部との話し合いが決裂し、坂本はオウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入った。

当時、オウム真理教代表者麻原彰晃(松本智津夫)は、真理党からの出馬を予定している翌年(1990年)の総選挙や、今後の教団の発展の障害となると考えていたようだった。

1989年11月3日、オウム真理教幹部である村井秀夫・早川紀代秀・岡﨑一明・新実智光・端本悟・中川智正の6人は坂本弁護士が通勤で利用する横浜市の洋光台駅付近で待ち伏せしていた。

自動車に連れ込み塩化カリウムを注射して殺害し、遺体をそのまま運び去ろうという計画だった。

しかし、この日は祝日。坂本弁護士は現れなかった。

そこで、麻原の指示により6人は坂本の自宅に向かい、翌11月4日未明に自宅に侵入。

まず、端本が、いきなり眠っている坂本弁護士の身体の上に馬乗りとなり、 坂本弁護士が目をさますや、声を上げさせないようにするため顎を手拳で数回殴打。

次いで岡崎が、上半身を起こそうとした坂本弁護士の背後に回り込んだ。

右手を首に回してパジャマの左奥襟辺りをつかむと右方向に引っ張り、パジャマの布地を使って首を絞めた。

坂本弁護士は、背後から首を絞め付けている岡崎を振り払おうとして必死に抵抗したが、岡崎を振り払うことができないまま、間もなく窒息死した。

一方、新実は、寝ていた妻の上に馬乗りとなり、騒がれないように口を両手で塞ぐなどし身体を押さえつけた。

彼女は苦しみながらも「子供だけはお願い」と、長男の助命を哀願した。

しかし、傍らで寝ていた長男が目を覚まして泣き声を上げたため、中川は窒息死させようと、その場にあったタオルケットで長男の鼻口を数分間押さえ続けた。すぐに長男はぐったりした。

新実は、妻の背後から右手を首に回して首を絞め続け、間もなく、窒息死させた。

妻から離れた新実は、中川の暴行によってぐったりし、けいれん状態の長男の鼻口を手で押さえ続け、窒息死させた。

その後、近所に聞こえないように、遺体を布団と一緒に車に積んで富士総本部に運んだ。

室内にあった「プルシャ」は中川が落としたものだった。

3人の遺体は3県に分けて埋めることになった。

坂本弁護士を新潟県内、妻を富山県内、長男を長野県内の山林に穴を掘って埋めた。

犯行時、手袋をしていなかった早川、村井は指紋を消去する手術を施した。

11月7日、坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所の弁護士も立ち会って、坂本宅を見分したところ、次の事実が判明した。

・床に敷かれた敷物の隅がたわんだ状態で、敷物を留めるための鋲が2、3個抜け、「く」の字に曲っていた。

・テレビ台が、40センチほど前にせり出していた。テレビ台の上にはテレビ、台の中にはビデオデッキ、ビデオテープが入っていてかなりの重さがあった。

・テレビの裏側に衣服が無造作に放り込まれ、テレビの上から置時計が落ちていた。

・鏡台の背後のふすまに、鏡台の輪郭と同じ大きさ、同じ形の凹みが残っていた。

・鏡台の足の部分と敷居には最近ついたと思われる傷があった。

・壁に血痕(坂本と同じO型)があった。

坂本弁護士は熱血的な弁護士で、事件を放り出して行方をくらますような人物ではない。

この時、すでに坂本の同僚弁護士たちはオウムによる拉致である可能性が濃厚だと考えていた。

その日の夜、同僚弁護士らは坂本の母とともに磯子署に捜索願を提出した。

オウムによる拉致が疑われることを必死に説明したが、警察は「特殊家出人捜索願」を出せという対応に終始した。

磯子署当直警察官が坂本宅の中を確認しにくるも、まったくやる気がなく、たった10分間ほどで帰ってしまったという。

8日朝、坂本の母と、妻都子の母が坂本の部屋を丹念に捜索したところ、オウムの幹部がつけている教団のバッジ「プルシャ」が見つかった。

これを持って警察に行き、やはりオウムの仕業ではないかと訴える。

同日、ようやく磯子署鑑識が現場検証を行った。

しかし、警察は自分らの7日の現場確認の不十分さを棚に上げ、「弁護士が先にプルシャを見つけた。こんなものを公判で使えるか。」などと、当事者が先に発見したことで証拠価値が引き下げられたかのような発言をした。

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11月14日、神奈川県警は、こんな事実無根の噂を新聞社数社に流した。

”坂本弁護士は依頼者の金を使い込んだ結果、高利貸しに手を出し、自ら失踪した”

しかも、それと同時に県警は「任意の失踪の可能性は五分五分」とリークしている。

それと同じ話を今度は公開捜査時に行い、加えて県警は

”11月2日の坂本弁護士の活動などについて、横浜法律事務所から弁護活動を理由に捜査協力を拒否されている”

とまたも事実無根の発言を行った。

さらに

”横浜法律事務所の言っているとおりに書くと恥をかくぞ”

と、横浜法律事務所を誹謗中傷し、その後も同様の発言を繰り返していたのだった。

磯子警察と神奈川県警は、どうしてここまでかたくなに事件性を否定し、オウムの関わりを否定し、そして被害者に対しことさら敵対的な態度をとり続けたのか。

これは、坂本弁護士が所属する横浜法律事務所が労働問題(国労横浜事件で県警が誤認逮捕した事案。無罪判決が出ている)や日本共産党幹部宅盗聴事件において、警察側と対立していたためと疑われている。

特に「国労横浜人活弾圧事件」は坂本が主に担当していた。

ただでさえ反権力志向とされる在野法曹の中でも、特に日本共産党系とされる弁護士らは警察と対立する立場にあり、反共主義的な意識(これは日本の警察全てに共通する)が初動捜査の失敗につながったとされる論調があった。

一方、宗教団体が政治的に力を持つようになったことが警察を萎縮させたという指摘もあり、とあるジャーナリストは、創○学会の政界進出のころから、宗教法人の不祥事があった際、それが明らかに違法行為となっても、司直の手が入らなくなったと指摘している。

1995年、地下鉄サリン事件が発生したのち、警察はオウム真理教の捜査を本格的に開始した。

その中、岡﨑一明の自供により坂本の一家が殺害されていたことがわかり、同年9月6日警察による山中の捜索が行われた。

同日、坂本と妻の遺体が白骨化した状態で発見された。

一方、長男の捜索は難航を極めたが、4日後の9月10日発見された。(死蝋化していたともされているが実際は不明)

坂本の死体は歯型から身元がわからぬようにと歯をツルハシで粉々に砕き、埋葬現場で景気付けに食べたタラバガニの殻と一緒にゴミと同じように埋葬されたと早川らは証言している。

発見された坂本の頭蓋骨には大きな穴が開いていたという。

この事件では、とあるテレビ局の報道倫理も問題視されている。

1989年10月26日にあるテレビワイドショー番組が、当時社会問題化し始めていたオウム真理教問題について坂本弁護士へインタビューを行った。

その情報を察知したオウム真理教幹部らが、テレビ局を訪れて抗議したことにより、坂本弁護士のインタビューの放送は中止されたのだった。

しかし、この時にテレビ局側はオウム真理教幹部に収録したインタビューのビデオを見せていた。

それから9日後の11月4日に坂本弁護士一家殺害事件が発生したのである。

結果的に「殺人幇助」といえるだろう。

また、このテレビ局は取材源の秘匿というジャーナリズムの原則に反しただけでなく、一家失踪後もビデオをオウム真理教に見せたことを警察や弁護士会には伝えていなかった。

6年後の1995年、地下鉄サリン事件を起こして逮捕された犯人が供述するまで、このことは公にされていなかった。

実はこの事件、未だに多くの謎が存在している。

・事件直前、坂本の自宅に対し「坂本さーん」と呼ぶ女性の声があったことや、その後で浴室からの水音を階下の住民(当時)が聞いているのに、事件が起きたとされる時間帯には全く物音がしていなかった事を、たまたまその時間に起きていた階下の住民は証言している。現在この一家の行方は不明。

・事件が起きた時には、坂本の自宅は施錠されていなかったことから、当時の緊迫した状況からは考えにくいとして、「坂本家に侵入したオウム信者とは別に、教団外の協力者がいたのではないか?」との疑いを持つ者もいる。

・坂本の自宅から茶碗が3つ消えている。

・「事件に関与した」とタクシー運転手を自称する者が、1994年頃にとある月刊誌の編集部に現われた(証言の真偽は不明なまま)などの「謎」が取り沙汰されている。

・オウム真理教広報の人物もこの事件に関与しているのではないかとされているが、本人は1995年(平成7年)5月の記者会見時「私には当日アリバイがあり、坂本弁護士が行方不明になった事は信者から聞きました」と主張したが、聞いたとされる日時が報道発表より4日も早い。

・坂本の自宅に落ちていた「プルシャ」と呼ばれるオウム真理教の徽章は、当時はオウム真理教幹部しか付けておらず、存在個数は数百個としていたが、「坂本一家・行方不明」の報道後は、教団広報の人物は大量生産を命じた後、横浜法律事務所側からの問い合わせに「プルシャのバッジは数万個単位で大量生産されているので分からない」と返答した。

・遺体がいずれも白骨化ないし死蝋化していたため、正確な死亡原因及び死亡日時の特定はほぼ不可能な状態となっていた。このため、オウムの弁護側からは一家の遺体であることの根拠に乏しいとの指摘も出た。

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信じるか信じないかは貴方次第。

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