麻原彰晃(本名:松本智津夫)という男の真実・正体


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麻原彰晃こと松本智津夫は、1955年3月2日、熊本県八代市に生まれた。

父親は畳職人をしていたが家は貧しく、しかも7人の子沢山であった。

松本はこの家の四男として生を受けたが、彼が物心ついたころにはすでに「極貧」とも言える状態だったという。

家は傾きかかった掘っ立て小屋同然で、子供達が生のサツマイモを与えられてかじっているのを見た近隣の者もいた。

時代は高度成長期で人々は急速に豊かに、華やかになっていたが、松本家は完全にその流れに取り残されたところで生活していた。

松本の長兄は全盲で、熊本市内の寄宿舎制盲学校に進学した。

松本も先天性緑内障により左目は視力がなく右目は見えたが視野狭窄の恐れがあったという。

さらに五男も弱視であった。

長兄は全盲であったが、松本自身はわずかとはいえ視力がある。

しかし両親は松本と五男をも長兄と同じ盲学校へ通わせた。

理由は、学費が免除されることと、寄宿舎費も食費もかからないことであった。

まだ6歳の松本は「行きたくない」とかなり反抗したようだが、結局彼は盲学校へ送り出された。

後年松本はこのときのことを振り返ってこう語った。

”親に捨てられた”

この後、松本は盲学校で13年間を過ごすが、その間、両親が面会に来たことや電話してきたことはただの一度もなかったという。

寄宿舎の寮母は、松本兄弟が入学した当時、あまりにも躾がされていないことに呆れて

”まるで猿の子供のようでした”

とコメントしている。

親なし子のように見えた、との言葉もあった。

正月に全生徒が帰省する際でさえ、松本の両親が送迎に姿を見せたことはなかった。

幼い3人の子供、それも1人は全盲で残る2人も弱視という境遇の子供を独力で帰省させる保護者というのは冷酷と言うよりほかない。

だが、それが当時の松本家の現実であった。

盲学校での松本は全盲の生徒を見下し、雑用をやらせたり、菓子や金を巻き上げたりするのが常だった。

逆らう者は暴力で支配した。

彼は幼い頃から利害に敏く、利用できる人間は大事にしたが、それ以外の人間は奴隷扱いで、松本に殴られたことのない生徒の方が稀であったという。

高等部では柔道を習い、中等部の生徒を殴って骨折させるなどの暴力沙汰を何度か起こし、謹慎処分となっている。

高等部を卒業する間際、耐えかねた生徒たちや父兄から「松本を退学にしてほしい」という声があがった。

しかし周囲が「もう少しの辛抱だから」と宥めたため松本は卒業することができた。

盲学校では、暴力的な振る舞いの他、顕著な権力志向と、金への執着心を見せている。

金に執着したのは、生い立ちの極貧に所以するものであろう。

そして権力志向ゆえに小学部5年時に児童会長、中学部在籍時と高等部在籍時に生徒会長、寮長に立候補したが、全て落選した。

高校卒業後、松本は専攻科に通って鍼灸やマッサージを学びつつ、大学進学を志した。

目標は東大法学部である。

この頃、松本は「東京大学法学部卒の政治家となりゆくゆくは内閣総理大臣の座に就く」という夢を持っていた。

しかし、盲学校の中で「中の上」レベルの成績だった松本に行けるようなところでは到底ない。

彼は真剣に勉強をした。

1975年、盲学校専攻科を卒業。

実家へは帰らず、松本は熊本市の鍼灸院でアルバイトをして生活した。

しかし勤務態度は悪く、人間関係もうまく築けなかった。

傷害事件を起こしたこともあったという。

1977年、上京。

しかし東大受験は失敗した。

 

のちに松本知子となる石井知子は、1958年に千葉県で生まれた。

祖母と両親が教師という硬い家であり、真面目で成績優秀。現役での大学受験に失敗し、予備校に通う毎日を過ごしていたころ、電車内で偶然隣り合った松本智津夫と交際をはじめる。

そして間もなく彼女は妊娠。1978年、2人は入籍した。

松本は23歳、知子は19歳であった。

新居は船橋市に知子の両親の援助によって建てられ、松本はその近隣で鍼灸院を開業した。

しかし間もなく処方箋を無断使用し、調剤報酬の保険金を不正請求したかどで、670万円の返還を県に求められた。

1982年には薬事法違反で逮捕されている。

その後松本は「修行する」と言い、妻子を置いて船橋から一時姿を消した。

 

結婚前あたりからヨーガや宗教に徐々に傾倒していた松本は、中国の運命学を独学で学んだ後、仙道に行き着いた。

「クンダリーニの覚醒」をここから取り入れ、さらにヨーガへ傾倒していったが、この過程で自らが「神秘体験」をしたのではないのだろうか。

松本は1981年から2年ほど、新興宗教団体阿含宗に入信していた。

カルマやハルマゲドン、解脱といった、オウムの基本的な世界観はここで得たのだろう。

1983年 夏、松本が28歳の頃、東京都渋谷区桜丘に仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設。

松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める。

そして翌1984年、渋谷に教団の前身であるヨーガ道場「オウムの会」を創設した。

1985年に空中浮揚の写真がオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』にとりあげられてから組織は拡大していった。

このころ、酒井勝軍の予言書に基づき、超能力と霊性を高める”ヒヒイロカネ”という石を探しに行く。

そして「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)を任ずる」との啓示を受け、「シャンバラ王国」を築くことを命じられたという。

世紀末にハルマゲドンが起きて、自分達がそれを救う、そのために修行する、といったオウム真理教の方向性は、この時点ですでに明確になっていた。

1986年4月には「オウム神仙の会」に改称、同年7月に「ヒマラヤで最終解脱をした」と宣言した。

翌1987年2月にダライ・ラマに謁見、7月に宗教団体「オウム真理教」を設立した。

この年の1月、丹沢集中セミナーにおいて「ポア」が初めて語られた。

”これ以上生きていても悪業しか積めない人間を殺して、魂を高い次元に転生させる”

というものだ。

誰をいつ「ポア」するかは最終解脱者しか決められない。

苦悩や煩悩を修行により解脱し、解脱させ、輪廻を超えて絶対自由・絶対幸福・絶対歓喜のマハーニルヴァーナに至る。

そのためにはグル(霊的指導者=麻原)の説く真理を実践することが大切だった。

麻原は解脱の条件とされているクンダリーンニの覚醒を、弟子に対して自らのシャクティーパットによって安全かつ短期間に行った。

信者次第では何時間もシャクティーパットを行ったという。

しかし教団創設のころにはストップウォッチを新実智光に持たせるなど、時間制限を設けるようになった。

これは麻原が悪いカルマを背負い過ぎたからである。

また、ハルマゲドンの到来を予言していたので、全人類を救済するための科学技術と軍資金が必要だった。

それを具体化したシャンバラ化計画のもとに、1987年ごろ、強引な会社や土地の乗っ取り、全財産を投げ打つお布施や出家、シャクティーパットに替わってイニシエーションがシステム化していった。

出家信者(サマナ)は、家族や友人との縁を切って、道場に寝泊りして信者同士で共同生活を送るということである。

教団創設初期の時点ではすっかり階級(ステージ)が存在する強固な縦社会になってしまっていた。

ヨーガ教室から宗教団体になる過程で離れた信者もいるが、それでも一連の事件に加担した幹部達は離れなかった。

全てを捨てた出家、死よりも恐ろしい無間地獄や三悪趣に落ちる恐怖、修行での神秘体験の喜び、麻原に認められることが彼らをとどまらせたのだろう。

オウムにおける観念崩し、後のマハームドラーは、煩悩ばかりか人間的な情や善悪の判断も全て捨てなければならず、さらに意思を捨ててグルのコピーになるぐらいの合一が求められており、それこそが真理の実践に他ならなかった。

そうしたグルによる試練の中で、ポアも正当化されていった。

 

麻原は、教団内に複数の愛人がいた。

オウム真理教ではその愛人のことを「ダーキニー」と呼び、ダーキニーとされた女性は、ホーリーネームに「ダーキニー」という名前が入っていることが多かった。

オウム真理教の出家信者の戒律には、「不邪淫」というものがあり、配偶者・恋人以外との性行為やオナニーが禁止されていた。

ところが麻原本人は「最終解脱者」とされ、戒律をも超越する存在とし、麻原専用の一種のハーレムを設けていたのだという。

麻原は大奥制度を確立した徳川家光の生まれ変わりとされたため、同様の組織を設けても構わないという理屈である。

宗教的な理由としては、「若い女性を高い次元に導いてやるために、左道タントライニシエーション(性行為)を最終解脱者の義務として施さなければならない」という論法が用いられた。

夜毎尊師の部屋には女性たちが入れ替わり立ち代り呼ばれた。

そして妻である松本知子は部屋の前で落ち着きなくうろうろしているのだった。

 

1990年2月、麻原は「真理党」を結成して衆議院議員総選挙に出馬した。

かつて政治家になりたいと公言していたという麻原にとって、政界進出はかねてよりの念願であった。

また、ロータスビレッジ構想に基づき、自分達で学校や病院を設立したかった事情もあった。

”ショーコショーコーショコショコショーコー♪”

麻原のお面をかぶって歌ったり、奇抜なダンスのパフォーマンスが行われる一方で、他の候補者のポスターを剥がすなどの行為もしていた。

この頃、女性記者から、

”もしも、麻原さんが総理大臣になった場合、日本の国民の全員がオウム真理教に入信しなければならないのか”

と尋ねられ、麻原は高笑いをし、

”信仰というものは個人が好きな宗教を選べばよいと思うので、そういうことはない”

と断言していた。

インパクトのある選挙活動を行っていたが、結局、麻原を含め立候補者全員が落選した。

”国家権力が票をすり換えた”

というのが、この結果に対する麻原の見解であった。

 

麻原は自分の名前を売るために、バラエティ等のテレビ番組にもよく出演していた。

某バラエティ番組内の中の「麻原彰晃の青春人生相談」というコーナーに出演していたり、朝のワイドショーでは被害者の会と口論を展開していたこともある。

多くの番組で、オウム真理教の正当性を主張していた。

空中浮遊をしている映像もよく取り上げられていた。

この頃はまだ麻原彰晃と麻原率いるオウム真理教は「怪しげな宗教団体」という感じで、世間では少々面白がって見ているような存在だった。

 

そして1995年3月20日。地下鉄サリン事件が起こった。

全世界に衝撃を与える程の大事件であった。

そして、その年の5月16日、ついに麻原は逮捕されたのだった。

 

”名前はなんと言いますか”

”麻原彰晃です”

”松本智津夫ではないのですか”

”その名前は捨てました”

”職業はなんですか”

”オウム真理教主宰者です”

1996年4月24日、1審の初公判の時、裁判長に対して松本はこう答えた。

初公判以降、マスコミは「麻原彰晃」ではなく「松本智津夫」として報道するようになった。

初公判の日、松本は時折傍聴席の方を見て微笑んでみせた。

ここから延々と起訴状が読み上げられたが、この間、松本は居眠りをしていたという。

幾度もの退廷処分、証言を妨害する数限りない不規則発言や罪状認否要求は、法廷の様子がおよそ通常のものではなかったことを伝えている。

松本は証言の際、奇妙なカタカナ英語を交えていた。

その英語交じりの主張は、要するに「一連の事件は村井をはじめとする弟子達の暴走であり、自分は悪くない」ということだった。

またある時、上下にガタガタ震えはじめた松本は、証言席の井上に対し

”私を精神異常だと思うだろうな、すまないが飛んでみせてくれ”

と、空中浮揚を指示することもあった。

このころは、自分は死刑を回避できると思っていたのかも知れない。

しかし、まるで夢から醒めたかのように弟子達が「麻原こそが一連の事件の首謀者である」と揃って証言しはじめ、一方で弁護団にボイコットされたことにより追い詰められた松本は、次第に何も喋らなくなった。

裁判の中、煩悩や輪廻を超えて最終解脱を果たした松本の胸に去来するものは何だったのだろうか。

2004年2月27日、1審で死刑判決を受けた。

”何故なんだ!ちくしょう!”

拘置所で松本は叫んだ。

死刑判決を受け、弁護側は東京高等裁判所に即日控訴した。

松本は裁判中に、以下の様な意味不明な発言をしていた。

”このような話を本日、エンタープライズのような原子力艦空母の上で行なうのは、うれしいというか悲しいというか、複雑な気分であります”

”第三次世界大戦が起きていますから”

”今の名前はない。ブラックホールを背負っている”

また、午前と午後で松本のズボンが替わっており、しばしば失禁しているとの話もあった。

さらに、拘置所では、おむつを使用していると報じられており、風呂に自力で入れないので看守等に洗われるわけであるが、体に付着した大便のせいで風呂場は大変な状態だという。

掃除の際は飛び散った大便を長靴で踏んで排水口に流せるほど細かくして流し、クレンザーで殺菌するのだとか。

また、松本は東京拘置所における弁護士との接見の最中に服の上から股間を擦り、さらに陰茎を露出させて自慰行為をおこない、射精に至ったという。

自分の娘たちとの接見でも自慰行為を行ったことがあったようで、2005年8月、3人の娘と面会の際には松本はせわしなく動かしていた手を止めると、スウェットパンツの中から性器を取り出しオナニーを始めたのだった。

3人の娘たちが沈黙している不自然な空気を感じ取った看守が気付き「やめなさい!」と制止したものの、3回ほど繰り返した。

3人の娘たちは絶句したまま呆然と父の自慰を見つめたまま接見時間の30分が過ぎた。

このような奇行について、詐病であるか否かで未だ見解が分かれている。

長期に渡る裁判の結果、2006年、最高裁で特別抗告が棄却されて死刑が確定した。

その後、再審請求されるも却下されている。

27人殺人(司法の認定としては26人殺人と1人逮捕監禁致死)は死刑囚としては戦後最悪の数字である。

麻原彰晃の子どもたち

12人もの子どもたちがいる死刑囚なんて、かつて存在しただろうか。

妻である松本知子との間に6人の子どもをつくり、石井久子との間では、92年2月に流産、93年12月に双子、さらに、95年3月に1人のあわせて3人。

この3人が松本智津夫の子どもであることは秘密にされてきた。

その理由を石井は自分の公判の被告人質問で説明した。

ジャーナリスト江川紹子の傍聴記録によると、

”オウムの教義では性欲の禁戒があって、出家したら性的欲望は断たなくてはいけないことになっていました。

それに、麻原さんの(子供)、ということなので、世間的には不倫ということになってしまいますし……。

オウムでは、麻原さんが触れる行為はすべてイニシエーション(儀式)と言われ、私も(麻原との性交渉は)そうだと言われていましたけど、それでは他の人を納得させるのは難しい。

知子さんのことなど、難しい問題がいろいろありました”

ということだった。

石井は、2000年11月、和歌山刑務所から出所した。

東京都内で記者会見し、今後について、「3人の子どもと一緒に静かに暮らしたい」と話したという。

この間、3人の子どもの養育費、養育にあたっている自分の妹に対する援助がオウム真理教から行われていたが、1999年いっぱいで打ち切られたという。

そのほかに、1人の女性信徒に子どもを産ませている。

松本と女性信者との性関係は当初からただならぬものがあった。

”後宮、ハーレムをつくる”

松本はこう言っていたそうだ。

オカルト雑誌の取材で松本に会った記者が、微妙な男女関係を想像したかのような印象を記事にしている。

”1985年の夏、私は麻原彰晃氏に会った。東京のとあるマンションの一室。

玄関に迎え出てくれたのは、石井久子氏だった。細い肩紐のピンク色の水着(タンクトップ?)に素足、私は女性がいるなどと知らなかったせいもあって、彼女のいでたちにちょっと驚いた。

私もヨガをしていたが、当時はまだ、露出度の高い派手なトレーニングウェアなどなかったからである。

そのマンションには、石井氏のほかに、やはり彼女と同じいでたちのふたりの女性がいた。

ひとりは飯田エリ子氏だ。

このときのことでほかに印象に残ることといえば、たしかウエットスーツの上下を着ていた麻原氏がそれを突然脱いで、黒のビキニの水着姿になってヨガの行を示したことだ。

私はちょっとためらいを覚えた。

そして、何というか、マンションの広いとはいえない一室で肌を露出してヨガをする4人の男女になんともなまめかしいものを感じていた”

実際に、石井とは3人の子どもをつくる。また、飯田とも関係したという証言もある。

1996年10月8日、東京地裁の早川公判で、宮前(岡崎)一明死刑囚が次のように証言した。

弁護人「あなたの検事調書に『その年(87年)の2月から4月にかけて、在家信徒の飯田エリ子と、肉体関係の戒律違反があったので、麻原から独房修行を命じられた』とあるのは?」

岡崎「それだけでもないです」

弁護人「調書にあるのはウソですか」

岡崎「麻原自身も、そのころ飯田エリ子と、肉体関係がありました。それで私は麻原から『お前とのことはエリ子から聞いたぞ』と言われたのです」

1997年3月27日の松本公判で、1987年から90年、東京都総務局指導課で宗教法人担当主査として、オウム真理教の宗教法人認証審査を行った都職員が証言した。

検察官「特に印象に残ったことはありますか」

職員「信者と家族のトラブルがたえないこと、セックスを用いた修行法や、教祖の血を信者に与える宗教儀式を行っていることについて、口頭で弁解を求めました」

検察官「後日、回答がありましたか」

職員「家族とトラブルがある場合は出家しないようにしてもらっている。セックスを用いるのは特殊な修行法で現在は行われておらず、血を用いる儀式は今後実施しませんという内容の文書が提出されました」

美人4姉妹で知られた『オウムシスターズ』の長女A子を妻として、1994年12月17日、上九一色村の教団施設から逃げ出したのは富田隆。

1997年11月27日、富田は自身の公判で、弁護人の被告人質問に答えた。

弁護人「(妻のA子との)交際のきっかけは?」

富田「94年2月、麻原彰晃の中国旅行に随行し、帰国して支部回りの警備役をしたとき、『アメリカが攻めてくるから準備しろ』と説法するのを聞きました。

同年4月、ロシアの射撃訓練ツアーが終わったあと、『どうせ戦闘で死ぬんだから、結婚したいヤツは、いまのうちに結婚しておけ』と、麻原に言われました。

それで思いきって、A子に声をかけたんです」

弁護人「どんなふうに彼女に声をかけましたか」

富田「第6サティアンのシールドルーム(個室)でいっしょになったとき、『尊師が好きな子に声をかけておけと言うんだけど、ぼくを受け入れるつもりがあるかい?』と問いかけると、『嬉しいけど、まさか引っかけじゃないでしょうね』と警戒されたんです」

弁護人「引っかけとは?」

富田「麻原から『あの男が好きか』と聞かれ、うっかり『はい』と答えると、『戒律を破るのか!』と叱責されることがあるから、心配したんだと思います」

弁護人「彼女に気持ちを打ち明けてから、どうなりましたか」

富田「やはり私としては、麻原に話して許可をもらわなければならないので、『いますぐとは言わないけど、A子と結婚させてください』と頼みました。

すると麻原から、『ハルマゲドンが終わったら結婚しろ。それまでは会ってはいけない』と厳命されたんです。

私は、彼女と結婚したかったから、脱走をもちかけたんです」

弁護人「そのときの反応は?」

富田「彼女は驚いた様子でしたが、信じられないようなことを打ち明けました。

麻原は特別なイニシエーションと称して、肉体関係をつづけていたんです。

その手引きをするのが、麻原の主治医の中川智正で、河口湖あたりのモーテルへ誘い出していました」

弁護人「あなたはどう答えましたか」

富田「そのとき彼女が、『尊師は人間を超えた存在で、神としてイニシエーションをほどこしたのだから、私はバージンだと思っている。こんな私と結婚してくれますか』と言うので、『教団から脱走しよう』と答えました」

弁護人「そういうことを話し合った時期は?」

富田「94年6月24、5日ころだったと思います」

どうやら松本は長女のA子とも関係があったようだ。

どれほどの女性信者と関係したのか。松本本人にしかわからないだろう。

1995年5月の逮捕後、松本はこう語った。

”長男(当時4歳)と次男(当時2歳)を後継者として指名し、彼らに対して『リンポチェゲイカ』という尊称まで使うよう指示してきました。

教団運営体制については、そのふたりの息子の他、4人の娘を5人の正悟師に加えて、『長老部』として、運営にあたるように指示してきました”

事件から20年近く経つ。

松本の子どもたちはどのように生きていくのだろうか。

松本知子のとの子は以下の6人である。

【長女】

1978年生まれ。

ホーリーネームはドゥルガー。

教団での地位は正悟師。省庁制の際には流通監視省大臣であった。

【次女】

1981年生まれ。

ホーリーネームはカーリー。

2000年1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。

逮捕理由は教団施設への「住居侵入」であるが、それは教団の実態は酷いと感じた次女が、長男を教団から救出・保護するための手段であったという。

その後も長男達の住んでいる龍ケ崎市に在る住居に時々遊びに来ていたという。

【三女】

1983年生まれ。

教団での地位は麻原に次ぐ正大師でホーリーネームはアーチャリー。

家庭教師は石川公一。省庁制の際には法皇官房長官であった。

2000年1月に長男を連れ去ろうとした事件で2月19日に逮捕され、保護観察処分となった。

2004年3月に合格した和光大学から入学拒否されたとして提訴し、東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じた。

【四女】

1989年生まれ。

龍ケ崎市に転居した時は、市の方針でその市の学校の転入拒否で2人の弟共々学校にも通えなかったという。

この要因は龍ケ崎市の転入拒否で市の戸籍を作って貰えなかったことが大きい。

協力者達のお陰で何とか学校に通えるようになったものの、学生時代はいじめに遭い、中学の校長からは「父親の所行を考慮すれば貴方は死んでも仕方のない人間だ」と評された。

2003年に教団との関係を保つ家族のあり方に疑問を抱き、後見人となった江川紹子の下に身を寄せる(後に江川は後見人を辞任している)。

麻原に死刑判決が下る2004年までは地下鉄サリン事件の詳細を知らず、自らインターネットや書籍を調べて自分に対する世間の冷たい視線の背景に初めて気付いたという。

その後はオウムや一家と絶縁し、自殺未遂を繰り返した。

ネットカフェ難民やホームレスのような生活をしながらも贖罪の道を模索している。

2010年、ペンネーム「松本聡香」名義で著書『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』を刊行。

「ひかりの輪」はこの著書に誤りが含まれているとしている。

【長男】

1992年生まれ。

日本シャンバラ化計画に於いて皇子の称号を与えられた。

1996年6月に教団の教祖となる。

四女と次男同様学校に籍を置くことが許されず、ほとんど学校に通わせて貰えなかったという。

姉や弟共々晴れて2001年4月から正式に学校に通うことになったが、始業式の日はテレビ局や新聞記者等が駆け寄ったため、協力者が追い払うことになった。

学校生活では、次男同様友達は出来たようである。

【次男】

1994年生まれ。

長男と同じく、日本シャンバラ化計画に於いて皇子の称号を与えられた。

1996年6月に教団の教祖となる。

小学1年生は1学期しか登校しておらず、その後は龍ケ崎市に引越し四女と長男同様学校に通えなかったが、協力者のお陰で学校に通うことが出来た。

しかし、約8か月も学校に通えていない時期が続いていたため、小学2年生から学校生活を正式にスタートした。

2004年秋、拘置所で父と対面し「会えてうれしいです」と声をかけたが、返事はなかったという。

2006年に春日部共栄中学校に合格したものの、「麻原の息子」だという理由で入学を拒否された。

次男らは、憲法で禁止された不当な差別によって精神的苦痛を受けたとして、共栄中学校に損害賠償を求める訴えを起こした。

信じるか信じないかは貴方次第。

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