『IT』ペニーワイズのモデルの殺人ピエロ- ジョン・ウェイン・ゲイシー


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政治活動にも積極的に参加し、青年商工会議所ではNo.2の地位を務めるなど地元では名士的存在だったジョン・ゲイシー。

『道化師のポゴ』というピエロに扮してボランティア活動を熱心に行っていた人物で、子どもたちからも大人気であった。

しかし、その道化の下には恐ろしい素顔が隠されていた。

それは『殺人ピエロ』の異名を持つ同性愛連続殺人犯という素顔だったのだ。

スティーブン・キングのホラー小説『IT』に登場する殺人鬼ペニーワイズのモデルとなった人物である。

 

1978年12月11日。

エリザベス・ピーストは15歳の息子ロバートが働くドラッグストアのカウンター席に腰掛けていた。

”今日はある建設会社に来年の夏休みのバイトの登録にいくから、ママはドラッグストアで待ってて”

ということで、エリザベスはロバートを待っていたのだが、一向に息子が現れる気配がない。

真冬のシカゴは凍てつくような寒さだ。

エリザベスは息子を徒歩で家に帰らせる気にはなれず、気長に待つことにしていた。が、ついに待ちきれなくなった彼女は、

”ロバートが戻ったら電話をするように伝えて”

と、同じくこの店で働く娘に伝言を頼んで店を出ることにした。

この日はエリザベスの46歳の誕生日。

ロバートが戻ってから家族みんなでバースデー・パーティーを始める予定だった。

それを知っているはずのロバートが、家族を待たせていつまでも外をうろつくのは不自然である。

帰宅したエリザベスは夫ハロルドに

”ロバートに何かあったに違いないわ。私はそんな気がするの”

と告げた。

21時45分、ロバートはまだ帰らない。

エリザベスはドラッグストアの店主に息子が面接に向かったという会社を尋ねた。

”ジョン・ゲイシーという男の建設会社です”

23時30分、ピースト夫妻はついにデス・プレーンズ警察に捜索願を出す。

そしてこの日はエリザベスにとって人生最悪の誕生日となるのだった。

翌日8時30分、デス・プレーンズ警察はロバート・ピースト少年の捜索を開始。

ジェームズ・ピックウェル刑事は、早速シカゴ警察でジョン・ゲイシーという男の人物照会を行う。

返って来た回答にピックウェル刑事は不吉な胸騒ぎを覚えた。

”かつて未成年男性への同性愛行為で服役した事があり、しかも『非常に暴力傾向が強い』人物”

さらに、1975年7月、この男が経営する建設会社PDMコントラクターズの従業員だった若者ジョン・ブツコビッチが行方不明になった折に、警察から100回以上の事情聴取を受けていた。

9時30分、ジョセフ・コゼンクザック警部補はゲイシー宅に向かった。

すると、中から背が低い丸顔の男ジョン・ゲイシーは現れた。

そして彼は、

”そんな少年は知らない”

と言うのだった。

ロバート少年に声をかけているのを店主や店員達が目撃していたことを問いただすと、

”ああ、あの少年のことですか”

と言った。

そして、少々言葉を交わしたのは事実だが、アルバイトの話を持ちかけてはおらず、面接の約束もしていないとのことだった。

コゼンクザック警部補はゲイシーに任意での出頭を丁寧に求めたが、ゲイシーは叔父が死んだばかりで、今は母からの電話を待っているから、と出頭を拒否。

しかし、何とか出頭の約束を取り付けたコゼンクザック警部補は、

”家出はない。絶対にこのゲイシーという男が少年の行方不明に関係している”

と直感した。

そして警部補はこの時点でゲイシーの捜査令状を取る事に決めていた。

ジョン・ウェイン・ゲイシーは1942年3月17日イリノイ州シカゴで生まれた。

彼はその名に当時のハリウッドスター「ジョン・ウェイン」の名をつけられているように、父からの期待を一身に背負って生まれた。

彼の父親、ジョン・スタンリー・ゲイシーは叩き上げの熟練工であり、人に弱みを見せてはいけない、という人生哲学を持っていた。

また、先天的に脳内に手術不可能な腫瘍があり、突発的に癇癪を起こすなど情緒不安定な人物でもあった。

やがて息子に先天的な心臓疾患があるとわかると、期待は逆に失望へと変わり、父親の虐待が始まる。

些細な事で文句をつけたり、ジョンが病弱なのは同情を誘おうとしている演技だと決め付けたり。

ことあるごとに「クズ」「まぬけ」「お前は将来ホモになる」などと罵倒し、結果ジョンは心臓だけではなくパニック障害も患うようになった。

心臓疾患に加えての虐待は相当なストレスであったことは想像に難くない。

ジョンは成人するまで父からいわれのない避難を浴び続け、その言い逃れをしながら生きていた。

しかし、どんなにひどい虐待を受けていても父親への愛情がなくなることはなかった。

彼の人生は父に認められるため、父のために傷つけられた自尊心を取り戻すためにあったと言っても過言ではないだろう。

やがてジョンは職業訓練校を優秀な成績で卒業し、父お気に入りの民主党議員を応援するなどの働きによって地域住民に認められるようになった。

だが、父は決してジョンのことを認めようとはしなかった。

ナン・ブッシュ・シューカンパニーに入社し、マネージャー見習いとして働き始めたジョンはたちまち出世し、大きな紳士用品店の店長を任されるようになる。

そして1964年9月、同僚のマリリン・マイヤーズにプロポーズし、結婚。

彼女の父親は地元でかなりの成功を収めた実業家で、やがて氏が買収したケンタッキーフライドチキンのフランチャイズの経営をジョンが任されるようになった。

ジョンはここで商業的成功を収める。

さらに、青年商工会議所でも積極的に活動し、息子、娘にも恵まれ、名士への道を着々と歩みはじめていた。

彼の才能と行動力は『眠らない男ゲイシー』という愛称で好意的に受け止められ、彼が将来的に商工会の会頭、あるいは市長という立場につくことも夢ではない、そう誰もが思っていた。

しかし、この時ジョンは既に深い同性愛の道にどっぷりと浸かっていたのだった。

或る日のこと、ジョンは少年に性行為を強要したかどで逮捕された。

ジョンを尊敬していた同僚達や地元の人間達は驚いたが、彼はこれまでも同性愛嗜好があるのを隠そうとしてはいなかった。

マネージャー見習い時代に酔った勢いで同僚と男色関係を結び、以来そっちの世界にのめり込んでいたのだという。

ケンタッキーフライドチキンの店長になってからは、アルバイトの少年達にも常習的に手を出すようになっており、ジョンは懲役10年の禁固刑の判決を受ける。

判決が出た翌日、妻のマリリンは離婚訴訟を起こした。

また、社会的成功を収めた息子にようやく心を開きつつあった父スタンリーは再び失望。

そして和解することなく翌年1969年にこの世を去った。

獄中でこの報せを聞いたジョンは号泣したという。

ジョンは獄中で高校卒業の資格を取ると、さらに通信教育で大学の心理学の単位を取得したのみならず、刑務所の待遇改善のための法案を二つも州議会に提出した。

これらの行為から模範囚として高い評価を受けたジョンはわずか一年半で保釈。

ちなみに、獄中ではジョンの行動力と弁舌さから”ジョンは仕事のライバルの罠にかかりデッチ上げで有罪にされた”と信じるものも大勢いたという。

1970年、出所したジョンは地元のシカゴに戻り、デス・プレーンズでPDMコントラクターズという建設・リフォーム業の会社を始めた。

かつてのやり手ビジネスマンの腕前は健在で、会社は順調に売り上げを伸ばして行った。

そして1972年6月1日、高校時代のクラスメイト、キャロル・ホッフと再婚するも、離婚。

この時、既に『殺人ピエロ』は動き出していた。

1978年12月12日、ロバート少年の失踪で出頭を命じられていたゲイシーは、その日出頭することはなかった。

コゼンクザック警部補が翌日署に出勤すると、

”ゲイシーが泥だらけの服で午前3時30分に出頭してきましたよ。警部補が帰ったあとだったので、ゲイシーも帰りましたが”

とのこと。

翌々日再出頭したゲイシーは出頭が遅れた理由を「雪のため」と詫びた。

しかし、ロバート少年については相変わらず何も知らないと言う。

さらには、「自分の会社は200万ドル以上」「有力議員に懇意にさせてもらっている」などと自慢話を始める始末。

ピックウェル刑事がゲイシーの会社の繁栄ぶりやボランティア活動などをおだてて話を聞いている間に、コゼンクザック警部補はゲイシーの家宅捜査令状を手にいれたのだった。

15時30分、ゲイシーに捜査令状が出た事を告げ、自宅の鍵の提出を求めた。

動揺した様子もなく落ち着き払った態度で鍵を渡すゲイシーに、警部補はロバート少年はここにはいない、と感じたという。

確かにゲイシーの家に少年の姿はなかった。

しかし踏み込んだ捜査陣はゲイシーの家を見て、疑惑が完全に確信に変わった。

家中のあらゆるところにゲイのSM関連の写真集やポルノ雑誌やロープ、手錠、巨大な張型が散乱していたのだ。

そして、ゲイシーの部屋に例のドラッグストアのレシートがあるのを発見すると、捜査陣はこれを証拠として押収した。

このレシートはロバート少年のガールフレンドであるキンバリー・ベイカーズがフィルムの現像を頼んだ時のもので、キンバリーは、

”そのレシートはロバートから借りたジャケットのポケットに入れておいたものに間違いありません”

と言った。

彼女はレシートの上に表記される番号までも覚えていたため、こう断言したのだった。

これでロバート少年がゲイシー宅を訪れていた事が確実なものとなった。それと同時に、彼の生存の可能性が非常に厳しいものとなったのである。

こうなると、問題なのはロバート少年の遺体の在処だ。

そこで警部補は、ゲイシーが午前3時に泥だらけの格好で出頭してきたことを思い出す。

出頭の約束をすっぽかして、遺体をどこかに運んでいたのかもしれない。

そこで、ヘリコプターや警察犬を使ってロバート少年の遺体を捜索するのだが、少年の遺体を見つけることは出来なかった。

一方、自分が重要参考人としてマークされていると気付いたゲイシーは、次第にイラつき始めた。

会社の共同経営者である友人に、

”麻薬の不法所持を疑われている、警察が自宅前で張り込んでないか見てくれないか”

などと助けを求めることもあったという。

捜査を進める内、ゲイシーはシカゴ界隈の同性愛者を相手にする「男娼」たちの間で非常に評判が悪いことが判明する。

ゲイシーは相手に苦痛を与えることで快感を得るタイプで、レイプまがいのプレイばかりを強要したという。

そして遺体捜索から一週間。

ゲイシーはあてもない長距離ドライブをしていた。

警察の尾行に気付いていたゲイシーは、帰宅するとその警官2人を自宅に招き入れた。

しかし、その行動がゲイシーにとって命取りになるのだった。

ロバート・シュルツ巡査は暖房の効いた部屋に入った瞬間、異様な甘酸っぱい臭いに気がついた。

”これは死体の臭いだ”

前回、家宅捜査をした時は暖房が入っていなかったために気付かなかったのだろう。

この報告を受けた警部補は、ゲイシー逮捕の時を確信した。

12月21日、警察はゲイシーの車を囲んで包囲し、マリファナ所持の容疑で身柄を拘束した。

尾行している警官の前で駐車場の係員にマリファナを手渡すところを目撃されていたのだ。

警察はゲイシーを自宅に連れて行き、

”今から床板をめくって床下を捜索する”

と言う。

このときゲイシーは

”そんなことする必要はない!”

と血相を変えた。

捜査チームをガレージに案内するゲイシーはこんなことを言った。

”実は、以前正当防衛で男を殺してしまった。そして床下に埋め、コンクリートを打った床に十字架を書いたのだ”

しかし、この言葉を信じる警察は皆無。技官が到着するとすぐに床下の捜査を開始した。

床下から凄まじい異臭のする黒い水をポンプで吸い出し、掘削機で泥をかき回す。

やがて、人間の腕の部分と思われる骨が掘削機の先端に引っかかった。

”これでゲイシーに殺人容疑を追加出来ますよ”

掘削にあたった技師はこう告げた。

ゲイシー宅に次々と到着するパトカーに、近所の住民は大騒ぎとなった。

遺体の採掘作業は凄惨を極めた。

遺体から出る有毒ガスに、汲み上げても汲み上げても湧き出てくる地下水、シカゴの冬の寒さ…

採掘チームにはガスマスクと使い捨ての作業着が渡されたが、それでも気分が悪くなったり、倒れたりする作業員があとを絶たなかった。

少年たちの遺体はグズグズに腐っており、中には死蝋化しているものまであったという。

毒性の強い腐敗菌によって調査にあたった警官は怪我をした場合命にかかわると宣告されたほどひどい状態であった。

それでもデス・プレーンズ警察は遺体が見つからなくなるまで掘り続ける、と発表。

結果、ゲイシー宅の床下、ガレージ、庭から計29名の遺体が発見され、後にデス・プレーンズ川から事件発覚のきっかけとなったロバート少年を含む計4名の遺体が発見された。

計33人にも及ぶ前代未聞の殺人であった。

ゲイシーは逮捕される直前、共同経営者である友人にこう言って泣き出したという。

”もうお終いだ、男を30人くらい殺してしまった。でも仕方なかったんだ。全員死んで当然の奴らだったんだ”

ゲイシーによると、最初の犠牲者は18歳くらいの身元不明の少年だったそうだ。

しかし、これは悲しい誤解が生んだ悲劇だった。

少年と一夜を共にしたゲイシー。翌朝目を覚ますと、その少年がナイフを持ってゲイシーの前に立っていた。

ゲイシーは驚き、乱闘の末その少年を刺してしまったのだ。

ところが、台所へ行くと作りかけのサンドイッチが。

そう、少年はゲイシーのためにサンドイッチを作っており、たまたまナイフを持ったままゲイシーを起こしに行ったのだった。

死体を床下に隠したのは、性犯罪の前科があったから。偶発的な事故だといっても警察は信じてくれないだろうと思ったという。

1980年2月6日、全米が注目する中ゲイシーの裁判が始まった。

ゲイシーは12回の死刑判決と21回の終身刑判決を受けるも、彼がこれまでに蓄えてきた莫大な資産と持ち前の弁舌を駆使し死刑の執行を免れてきた。

また自分を妬む人や警察の陰謀であるとして冤罪を主張し、死刑制度の違憲性を訴えて上告を繰り返したり、多重人格を理由に無罪を訴えたり。

なんとかして無罪を勝ち取ることに必死な様子であった。

ゲイシーはいかなる場面においても自分を正当化したがる性格であったため、彼の弁護団が精神異常によって切り抜けようとしていたことに憤慨していたという。

そんな中、ゲイシーに興味を持ち手紙を送ってきた18歳の少年がいた。

ジェイソン・モスというわずか10歳で大統領顕彰の成績優秀学生賞を受賞した天才少年で、ゲイシーはその少年と文通を始めることになる。

ある日、ゲイシーは少年に、

”人殺しをした本当の理由を教えてあげる”

と刑務所に招待し、面会することとなった。

ゲイシーは模範囚として信頼をされていたため、仕切りのない面会室で看守抜きの面会を取り付けることが出来た。(実際は規則違反)

しかし、そこで欲情を抑えられず、少年を殺害しようと凶行に及んだことでゲイシーの命運は尽きた。

間一髪、通りかかった看守によってモスは救出され、このことをきっかけに死刑執行が確定されたのである。

再審請求が却下され、死刑執行が確定した後、ゲイシーはこう言った。

”俺はとんでもなく恐ろしい事をやったけど、いい事だってたくさんやっているんだぜ”

1994年5月10日、薬物注射による死刑が執行された。

その際薬物の分量に手違いが生じたのか、ゲイシーは窒息するまで意識を失わず、約18分間苦しみ抜いてから絶命した。

これについてコメントを求められた担当検事のウィリアム・カンクルは、

”被害者が受けた苦痛に比べれば、ゲイシーの苦痛など大したことはないね”

と冷淡にコメントしたのだった。

ゲイシーの最後の晩餐はケンタッキーフライドチキン、フライドポテト、イチゴ、コーラと、若き日の成功を象徴するものばかりだったという。

殺害されそうになったジェイソン・モスは、これ以前にも服役中の凶悪殺人犯と手紙のやり取りを行い、相手の深層心理を研究することを趣味としていたという。

”お前のせいで死刑になっちまった”

というゲイシーの捨て台詞のせいか、ゲイシーに襲われて以降この趣味は鳴りを潜めたようであった。

しかし、2006年6月6日、犯罪被害者の弁護士として活躍が期待されていたにもかかわらず、自宅浴槽で拳銃自殺を遂げた。

また、余談ではあるが、ゲイシーの描いたピエロの絵画はマニアには大変な人気があり、展示会が開かれたり、高値で取引されている。

著名人では俳優のJ・デップが購入して所有している。

 

信じるか信じないかは貴方次第。

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