童謡『しゃぼんだま』の秘密

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しゃぼん玉は虹色に輝き、風に乗って軽やかに舞いあがる。幼い子が吹いているのは微笑ましい光景だ。

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しかし、その子の視線の果てでは、はかなく消えて行く運命が待っている。そうしたしゃぼん玉を想像したとき、この野口雨情作詞「しゃぼんだま」は明るい童謡だろうか。どこかはかない影がある童謡だろうか。

『しゃぼんだま飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた かぜかぜ吹くな しゃぼんだま飛ばそ』

この詞の成立をめぐっては様々な説がある。

夭折した愛娘への鎮魂歌説。親類の子への鎮魂歌であるという説。特定のモデルはなく子どもの死一般を悼んだものとする説。特に鎮魂の意は無いという説など、枚挙にいとまがない。

ところで野口雨情とはどんな人物だったのか。

童謡界の三大詩人

雨情は廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、1年余りで中退、詩作を始める。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を自費出版。1907年(明治40年)三木露風、相馬御風らと共に早稲田詩社を結成する。

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雨情はその後しばらく詩作から遠ざかり、北海道に渡って新聞記者となる。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結んだ。しかし雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こして敗れ退社し、啄木とは1ヵ月足らず机を並べただけに終わる。1909年(明治42年)に北海道を離れ、いったん帰郷した後再度上京する。

1919年(大正8年)詩集『都会と田園』で詩壇に復帰。斎藤佐次郎により創刊された『金の船』に童謡を次々と発表。作曲家の藤井清水や中山晋平や本居長世らと組んで多くの名作を残し、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。

夭折した愛娘への鎮魂歌

1908年、雨情は後に協議離婚に至ることになる妻・ひろとの間に、長女「みどり」をもうけた。人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。

当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、2~3割の子供が学齢前に死亡していた。そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。

そしてある日、茨城県は多賀郡の磯原村の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「しゃぼんだま」だというのが最もよく知られている。

しかし、雨情自身が子どもの死との関連について触れている資料は一切なく、雨情の遺族の間でも意見が分かれている。

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信じるか信じないかは貴方次第。

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