異種格闘技戦の雄であるアントニオ猪木

2015-11-10_163006

1982年の事である。

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「いつ何時も、誰の挑戦でも受ける!」と表明したアントニオ猪木に対して、小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家の水谷征夫が「ルールの無い命を賭けた戦い。」を申し入れた。

その申し出に対し、アントニオ猪木は承諾し、具体的な話が勧められた。この『ルールの無い命を賭けた戦い』の内容というのが、非常に恐ろしいものであった。

プロレスと空手のいかなる技も自由として、勝負は生死をもってのみ決するというものである。

つまり、試合が一度始まってしまうと、どちらかが死ぬまで戦いは終わらないのである。

水谷征夫が琉球古武術の達人だった事から、アントニオ猪木の素手に対して鎖鎌で戦いを挑む事になったと一部では言われているが、これは誤りのようである。

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この試合は両者で一旦は合意され、当時のマスコミから『昭和の巌流島』として大きく取り上げられた。

大多数のスポーツ紙はアントニオ猪木有利の予想をしていたというが、肝心の試合にテレビ放映のスポンサーがつかなかった事や、水谷征夫の得意とする貫手による目への攻撃や蹴りによる急所攻撃によって、アントニオ猪木に万が一の事がある事を恐れた者達の必死の仲裁によって、試合はまさに直前になって中止になった。

これには全国のプロレスファンが残念に思った反面、安堵したとも言われている。

交渉の過程で水谷征夫はアントニオ猪木に対して、プロレス界のスターでありながら、一空手家の挑戦をリスク覚悟で承諾した姿に尊敬の念を抱いたという。

また、アントニオ猪木は今まで外国の強豪を相手にしていた自分に、命を賭けて戦いを挑んでくる日本人がいる事に驚いたそうだ。

戦いを前に対立した二人だったが、その後は交流を深め、二人は寛水流空手を創設した。水谷征夫は1990年に死去したが、訃報を知ったアントニオ猪木はかつての敵であり、盟友でもある水谷征夫の早過ぎる死に涙したという。

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信じるか信じないかは貴方次第。

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